甘い檻


1の6

気が付くと、とっくに隣の個室はお帰りになっていた。
でも、僕の尿意はまだ開始してくれない。
後ろ髪を引く良心を黙らせ、
スカートをまくりたい衝動をなだめつつ、
股間に意識を集中する。
このスカートの生地の下。
いま、雅美の下半身はノーパンなんだ……
そんな想像に、血液が下半身に集まりそうになるけど、
その目的地は、今、僕の下半身には存在しない。
なんかもやもやした感覚。
そもそも、見ないでねらいを定めてるし……
と言うか、男と違って照準がないのがまた、なんとも心許ない。
「大丈夫かなぁ……」
まくって、様子を確認したい衝動に駆られるけど、
ここは何とか我慢する。
僕の記憶が確かなら……構造的に、大外ししたりしないはずなんだ。
「うああ、想像しちゃったよ」
スカートの下の戦々恐々とした様子を想像して、
またもやもやしてしまう。
集中しなきゃ……
「んっ、……あ」
やがて、その感覚がとぎれた瞬間に、
ちょろ、じょろろ……
と、水音が聞こえてきた。

「ふぅ……」
中途半端な量のおしっこをとりあえず放出し終え、
パンティを穿かなければならない段になって、ふと気が付いた。
「どうしよう、紙で拭かないといけないよな」
あわてて下着を替えずに来てしまったこともあるし、
せめてこれ以上、下着を汚すようなことはしたくなかった。
でも拭くとなると、下半身に触れることは避けられない。
「うーん、悩んでも仕方ないか」
とりあえず、スカートは降ろしたままにして、
手を突っ込んでおしっこを拭くことに決めた。

男のモノと勝手が違って……窪んでいるわけだから、水滴は綺麗に切れてくれない。
その残尿感に似た微妙な不快感を頼りに、トイレットペーパーをあてがう。
カサッ……
間接的な……陰毛に紙のふれるかすかな音がしてから、
紙が大切な場所に押し当てられるのを感じる。
男の自分の時には、障害物があって当たらないはずの場所。
その感覚はどうも慣れられそうにない。
あまり強く押し当てたら傷が付くかもしれない……
そんな不安もあってそっと押し当てるようにして丹念に水分をぬぐうと、
紙を便器に捨てて、パンティを元に戻した。

1の7

疲れた。決定的に疲れた。
単に用を足しただけなのに……
朝からこんなに滅入るなんて。
人気のない廊下を、
僕は人目を避けるように足早に教室へ急ぐ。

「あれ、雅美……おはよう。来てたの?」
教室に戻ると、声をかけてくる人物がいた。
思いもかけない展開に、体がきゅっと引き締まるのが分かる。
声の主は、雅美と親しい同級生、小倉ゆりねだった。
「お、おはよう。えっと、おぐ……ゆりね、って……こんな早かったっけ?」
雅美の様に振る舞って、名前を呼び捨てにすると、
どうしても心臓がばくばくする。
それを察したのか、小倉さんの表情が怪訝な物に変わっていく。
「え、私はいつもこの時間だよ。知ってるでしょう?」
しかし、彼女が気にしたのはそんな些細なことではなかった。
しまった。失言だ。
おちつけ、落ち着け……
でも、心拍数は容易には下がってくれない。
「それより……雅美の方が変じゃない。いつも彼とぎりぎりの時間に来るのに」
「えっ……う、うん……」
「彼も来てるの?」
「か、彼?」
思わず声が裏返る。
「柳井くんよ。鞄、あるでしょ?」
彼女の指さす……僕の席には、鞄が置いてある。
当たり前だ。自分が置いたのだから。
「あ、あはははは……これ、私の」
「……」
慌てて鞄を手にする僕に、小倉さんの視線が突き刺さるのを感じる。
あまりの挙動不審さにあきれているのか、
それとも……あらぬ事を疑っているのか。
僕は、学校に来た時点で、雅美になりきる覚悟をしなかった自分を呪った。
「……ま、仲がいいの、知ってるけどね。
 でも……私の気持ちも考えて欲しいな」
「えっ……?」
小倉さんの、気持ち……?
不意に踏み込んだ話を振られて、僕は思わず呆然としてしまう。
「いまさら、雅美が柳井くんとつきあってるとしても驚かないけど……
 私に隠すことはないでしょう?」
「あ、そ、そうだね……ハハハ。でも、そんなんじゃないよ」
そっか。雅美は……小倉さんとは親友なんだっけ。
隠し事をされたと思えば……不快にもなるか。
「そうなの?」
「うん、ま……あいつとは腐れ縁だけど、別にそんな仲じゃないから……」
雅美と言いそうになりながら、言葉を選びながら弁解する。
「ふぅん。でも、つきあうことになったら、ちゃんと私に教えてよね」
「う、うん……分かった、よ」

口では納得したようだけど、不審な表情を崩さず……小倉さんは部活に行った。
緊張が解けて、全身からぶわっと汗が出るのを感じる。
「はぁ……そりゃ、ばれない方がおかしいよ」
明らかに今の自分の物言いは、雅美の物とはほど遠かった。
とにかく、このまま教室にいたらまずい。
授業が始まるまで、時間をつぶさなくては……
教室を出ると、誰もいないはずの屋上へ向かった。

1の8

「うっ、さむ……」
屋上は誰もいなかったのだが……さすがに早朝は冷え込んでいる。
さらに、この体。どうも男の……僕の体に比べて、寒さには敏感なようだった。
いや、スカートだからか?
スースーする足元に、否が応でも自分が雅美を演じていると思い知らされる。
「夢、やっぱり覚めないんだ……」
グラウンドを見下ろすと、小倉さんが重そうな楽器を持って歩いていくのが見えた。
「朝練かぁ。雅美が部活やってなくてよかった……」
ほっとする反面、雅美が吹奏楽をしていないのを少し残念にも思う。

彼女の前で、あんなに緊張したのには理由があった。
雅美と親しい小倉さんだけど、彼女は……僕の知る女子の中でもかなりかわいい方だ。
でも、僕が話す機会はあまり無い。
雅美に紹介して、と何度か頼もうとしたことがあるけど……
うまくはぐらかされたり、タイミングを外したり。
だから、一度でいいから話してみたい……とは思っていたのだ。
だけど、いざ面と向かって二人っきりになるのは、
うれしい反面、想像以上に緊張することだった。
とはいえ、チャンスに変わりはない。
「これは、雅美に感謝しないといけないかもな」
別に雅美は関係ないかもしれないし、
だいたい、これが悪夢じゃない保証はどこにもないのだけど。
それでも、僕は感謝の気持ちを覚えずにはいられなかった。

「だけど……困ったな。どうしよう、これから」
これが夢なら、気にしてもしょうがないことだけど、
でも、まだ覚めない以上……これが現実である可能性を考えなくてはいけない。
自分は今、雅美の姿をしている。
粗相をすれば……それは、雅美の悪評につながるのだ。
それだけは避けたかった。
雅美は、ずいぶん昔からの……それこそ幼稚園の頃からのなじみだ。
だから、気の置けない仲だけれど、
それだけに誠意のある態度で接していたいし、
雅美が悪く言われるのは、面白いことではなかった。
彼女の中に自分の意識があると言うことは、
これからの行動は彼女は与り知らないことなのかもしれないけれど、
それをいいことに失態を犯すのは、自分にとって許し難いことだった。

まず、自分が雅美になりきること。それから始めないといけない。
彼女は女子にしては、ちょっと……
と言うよりかなり男勝りな性格と言ってよかった。
でも、自分はずっと接しているから、口癖とかもそれなりに覚えている。
あとは、それを実行に移せるかどうか。
「……いきなりは、無理だよなぁ……」
言葉はともかく……
雅美は、さっきの小倉さんでさえ、遠慮無くばんばん背中をたたいたりする。
自分にはとても真似できない。
女子の体に触れるのは、ちょっとためらいがある。
それを……たたいたり、触りまくったり……
しかも、それを小倉さんにもなんて。
意識せずにしろという方が無理だろう。
「とりあえず……会話しないように努力するしかないか?」
暇なときは、寝たふりをする。
ちょっと雅美らしくないが……
しばらくは消極策で行くことを心に決めた。

1の9

予鈴が鳴り、無難に挨拶を交わしながら教室に戻ると、小倉さんが話しかけてきた。
「柳井くん、来ないね」
「えっ……う、うん……」
僕の意識はここにある。
でも、体はどうなっているのだろう……?
ちょっと心配になったが、今の自分に、それを確かめる術はない。
「雅美、知らないの?」
「うん、別に寄ってきた訳じゃないし」
「ふぅん……珍しいよね、雅美がまっすぐ学校に来るなんて」
彼女の言葉に、少しとげを感じるのは気のせいだろうか?
キーンコーン……
本鈴が鳴り響き、小倉さんと分かれて席に着いた。

幸運なことに、その日はすべて教室での授業。
宿題もなく、当てられる気配もなかったので、
安心して……考え事にふけることが出来た。
魂が入れ替わる話は、オカルト話にはよくある話だけど……
自分の体が登校して来なかったと言うことは、
雅美の精神は自分に乗り移ったわけではないようだ。
いや、もしかすると……
学校に来るに来られず、どこか彷徨っているのかもしれない。
でも、男の体だ。別に……変なことに巻き込まれたりはしないだろう。
「……だ、大丈夫だよな?」
心配になるが、気にし出すと際限なく不安になりそうだ。
放課後……自分の家に寄ろう。
そう決めて、何とかその考えを頭の中から押し出すことにした。

1の10

「ねえ、雅美。今日はお昼、どうするの?」
昼休み。タヌキ寝入りを決める前に、早速小倉さんが話しかけて来る。
「う、うん……えっと……」
雅美の日常行動を脳内検索にかける。
普段は雅美は弁当を持ってきている。
そして僕と食べることも多いのだが……
今日は卒倒してた母親を置いて飛び出してきたのだ。
そんな物はない。
弁当がない日は……たしか小倉さんと学食に行っていたはずだ。
「今日はおべんと、持ってきてないんだけど……」
「じゃあ、学食に行く?」
「う、うん……」
ゆりねと一緒にいる、ということはぼろの出る確率を上げることに他ならない。
しかし……朝食を抜いたから腹が減っていたし、
雅美にとっても、他の人間の前で失態をかますよりは遙かにましだろう。
気は乗らなかったが……覚悟を決めて、彼女について行くことにした。

「で、早速なんだけど……今日の雅美、へん、だよね?」
「えっ……」
予感がなかったわけではないけど、
席に着くやいなや、彼女は単刀直入に切り出してきた。
「お昼のメニューにしてもそう。Aランチセットなんて頼んだこと無いもん」
「……」
実は、雅美と学食に来たことはない。
だから好物は知っているのだけど、
どのメニューを普段食べているのかは分からなかった。
小倉さんの視線を感じながら……
さんざん悩んだあげく、一番上にあったAランチを頼んでしまったのだが。
「普段、体重気にして素うどんとか、
 カロリー少なそうなものしか食べてなかったでしょう?」
「そ、そうだっけ……アハハ……」
「……」
こ、こんな受け答え……本人がしたら記憶障害だよ。
……ずぶずぶ、泥沼にはまりこんでいく気分。
「どうしたの?頭打った?」
「……」
「ねぇ、驚かないから、正直に言って?」
「……後で、後で話すよ……ここじゃちょっと出来ない話だから……」
「……そうだね、分かった。とりあえず、いただきましょうか」
僕は、最後の晩餐の気分でAランチに口を付けた。

つづく
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